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〈文銭堂本舗(東京・新橋 和菓子)の巻〉
本物の素材で高品位の和菓子を製造
定番の「文銭最中」「黒牡丹・君牡丹」
人気上々の「学問のすゝめ」
文銭堂本舗の本店は、JR新橋駅より烏森通りを日比谷方面に歩いて、ほぼ三分のところにある。たいして広い店ではないが、それにしてもお客様が多い。いつ通ってもお客様でいっぱいだ。店内には和菓子の甘く快い香りが漂っている。うれしいのは。いくつかのお菓子を試食できることである。お茶も飲める。試食していると、お店の人が、さっとお茶を出す。そのタイミングの良さ、愛想の良さ、これだと最中を買いに来た人がうれしくなり、つい上生(上生菓子)、も買おう、ということになるかもしれない。試食といえば今、デパ地下(デパートの地下)が話題になっているが、洋菓子系に比べて和菓子系はあまり試食させてくれない。街場の店では全くないといっていい。
もっとも、こんなサービスをしさえすれば、どこの店でもはやるかというと、そうではない。一時的にはやるだろうが、ずっとはやるという保証はない。しかし味が良くて、その上こんなサービスをすれば必ずはやるだろう。文銭堂本舗はその口だ。
文銭堂本舗の和菓子の美味しさ、そして上品さには定評がある。毎月六種類、年に七十二種類。またお節句、お花見、茶会席などの季節の生菓子が豊富で、年間をとおして約二百五十種類ほどが熟練の職人によって作られている。
通年で売られているものの中でに、上質のあん(餡)で作られる「文銭最中」は秀逸である。あんは、ていねいに晒したこしあん(漉し餡)。ふんわりと柔らかく、きれいに品良く仕上がっている。小豆はすべて北海道十勝産を使用している。こしあんは外皮を除去した、いわゆる皮むきあんで、その中に、一粒一粒つぶさないように、かまどに入れて炊き上げた小豆を合わせたこだわりのあんは、上品で美味しい。あっさりとしたこしあんの中に、小豆一粒ずつの風味が快い。香ばしい皮も専属の職人が表裏をほどよく焼き上げたもので、あんと皮のバランスがみごとである。
「文銭最中」は文銭堂本舗の代表的銘菓で、おみやげに買われるケースが多い。「文銭」とは寛文年間(1661〜73)に、京都の方広寺の大仏を壊して鋳造した寛永通宝銅銭のことである。背に「文」の字ga刻まれている。文銭は、大仏の化身とされて大仏銭とも呼ばれた。そして”是を帯せば病を知らず、また財布の種銭として、これを懐中にすれば財布が常に温まる。”と珍重されてきた。
文銭の形をした文銭最中は、この典雅な趣にヒントを得たという。まことに風味豊かな菓子で熱烈なファンがいる。中のあんは大納言(北海道小豆)、白隱元(つぶしあん)、小倉(手より小豆とこしあん)、栗(蜜漬け栗あん)を合わせたものである。
この「文銭最中」に並ぶ人気商品に「黒牡丹・君牡丹」があある。美しく品格のあるお菓子である。「黒牡丹」は、黒胡麻入りの風味豊かなあんで釣鐘型に仕立ててある。中の黄味あんとの調和がみごとで味にコクがあって美味しい。「君牡丹」も同型で対に仕立ててある。黄味あんの表地に黄味の風味が生きている。中のあんは蜜を含ませた大納言である。「文銭最中」と「黒牡丹・君牡丹」は、文銭堂本舗を代表する銘菓といえるが、昨年売り出し、このところ急速に人気を高めてきたものに「学問のすゝめ」がある。これはいわゆる”手付け最中”である。あんと最中種(皮)が別々になっていて、合わせて食べる。作り立てのパリっとした食感と、あっさりしたあんと皮の香ばしさがウケている。
「学問のすゝめ」は言うまでもなく福澤諭吉の著書であるが、発想は文銭堂本舗が、慶応義塾大学のある三田に支店を置いているところにある。
何業といえども、開発意欲を失ったら停滞する。本の形をしたパッケージに、「学問のすゝめ」と名付けて販売する、という斬新なアイデアを打ち出すあたり、「文銭堂本舗」の開発意欲はなかなかのものである。
包装紙の模様をヒントに
生まれた「文銭最中」
「文銭堂本舗」の創業者であり、現社長の田口邦夫氏は、埼玉の久喜市に大正十三年五月に生まれた(七十八歳)。
田口氏は戦後、新橋の駅前に露店を出し、おしる粉などを売っていた。隣で鈴木ハマさん、通称小月さんが飾っていた。小月さんは新橋四丁目に住んでいた。田口さんは、小月さんの軒下を二坪ほど借りて屋根を借りてお菓子の製造を始めた。久喜で和菓子屋を経営していた田中さんという和菓子職人を呼んで、どら焼きや粉饅頭など、少し手の込んだお菓子を作るようになった。続いて芝田村町四丁目(現在の西新橋四丁目)に六十坪の土地を借り、十八坪の住居兼作業所を建て、本格的に菓子製造を始めた。昭和二十一年十月のことである。
田口氏の実家は久喜の駅前でお菓子と果物を売っていたが、田口氏は自分ではお菓子を作らない。日本橋本町に職人をあっせんする「寿家七(すやしち)」というところから職人を数人世話してもらい、本格的に和菓子一般の製造を始めた。お得意様は、新橋・銀座界隈の花柳界であった。相当のレベルにあったことが分かる。創業時の屋号は「多ぐち」であった、昭和二十三年二月に、現在地を購入。一階を店鋪兼工場、二階を住居にして新築し、同年十月二十五日に完成した。その日、田口さんは結婚した。そして、その十一月十五日に開店した。続いて、「文銭最中」が誕生するが、寿栄堂という印刷屋に包装紙を頼んだら、模様に文銭が描かれていたので、これを最中の形にしてはどうか、と思いついたのが「文銭最中」の始まりである。次いで二十四年二月、会社設立。社名を「文銭堂本舗」とした。ちなみに文銭堂本舗のパンフ類は以後休むことなく奥様が作っている。絵と文章で構成されていて楽しい。
「私どものお菓子がよく売れたのは、まず材料が良かったからです。当時、砂糖は貴重品でしたが、芝浦に上がってくる外国船の船員から砂糖を買って、小豆でも粉でも良質なものを使いましたからね」と田口氏。ちなみに昭和二十三年当時で上生菓子が七円、最中は五円であったという。当時にしては相当に高い。
材料も良かったが、職人も良かった。田口氏によると、日本でも指折りの職人が次々と寿家七から入っていたという。その職人を訪ねてきた人が、まもなく文銭堂の菓子製造の顧問となり、実に五十年に及ぶ。
「当時は二十五歳でしたが、今でもお元気で味のチェックをされています」
素材を大切に、手作りで良質なお菓子を作ろうとする文銭堂本舗の姿勢に、顧問の先生は共鳴したのであろう。
「ウチは機械をいっさい使わない。何年か前、機械を入れたことはありますが、すぐにやめました。やめた原因は、機械では原料の柔らかさ、美味しさができない。手作りは手間がかかりますが、美味しさを追求することにしました」
現在、店鋪は新橋と三田の二店鋪だけである。
「コンサルタントの先生に、三店鋪で競争すると繁盛すると言われたのであと一軒は作りますが、それは息子の課題です」
それはともかく、この先、どういうお菓子を作ってくれるか楽しみである。
Mビジネスフォーラム 代表取締役
中村雄昂
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